似ているようで、似ていないようで
すだちとかぼす。 名前の響きも、見た目も、どこか似ています。 でも、手に取ったときの重さや、切ったときの香り、絞ったときの酸味── それらは、ほんの少しずつ違うような気もします。
けれど、その「気がする」は、いつも確かではありません。 季節や気分、料理との距離感によって、揺れてしまうものです。
違いは、はっきりしないまま、記憶に残る
すだちを使った日の夕食が、なぜか印象に残っている。 かぼすを絞った冷奴が、妙に落ち着いた味だった。 そんなふうに、違いは“記憶の中の風景”として残ることがあります。
でもそれは、すだちだったからなのか、かぼすだったからなのか。 はっきりとは、言えないのです。
選ぶというより、選ばれているような
スーパーの棚で、どちらかを手に取る。 その瞬間に、理由はありません。 ただ、今日はこっちかな──そんな曖昧な選択が、日常にはちょうどいい。
違いを知るよりも、違いを感じる。 そして、感じたことを忘れてしまうくらいが、ちょうどいいのかもしれません。
結び──違いは、語られないまま、そっと残る
すだちとかぼすの違いは、語ろうとすればするほど、ぼやけていきます。 でもそれは、悪いことではありません。 違いが曖昧だからこそ、選ぶ余白が生まれ、記憶の揺らぎが残るのです。
違いを知るよりも、違いに寄り添う。 そんな感覚が、すだちとかぼすには、よく似合います。
