スパイ防止法を作るという議論があります。しかし、私はその前に、日本自身が情報を集める能力をどう整えるのかを考える必要があるのではないかと思います。外国のスパイを取り締まることは重要です。ただ、相手の活動を把握できなければ、何を防ぐべきなのかも十分には見えてきません。日本が自ら情報を収集し、分析し、必要に応じて海外で活動できる体制を整える。そのために、「国家情報学校」を設置してはどうでしょうか。
スパイを防ぐ前に、情報を集める
スパイ防止法という言葉からは、外国のために情報を盗む人間を取り締まり、処罰するというイメージが浮かびます。もちろん、国家の安全に関わる機密情報が不正に持ち出されることを防ぐ仕組みは必要です。しかし、取り締まりの法律を整えるだけで、外国の情報活動に対抗できるのでしょうか。
外国政府が何を考え、どのような政策を進めようとしているのか。日本の政治や経済、安全保障にどのような影響を及ぼそうとしているのか。こうした情報を、相手が公表する内容だけに頼らず、自ら収集し、分析できる能力も必要です。
さらに、外国の情報活動は、機密情報を盗み出すことだけに限られません。世論に影響を与えたり、社会の対立を利用したり、特定の政策や政治的立場を後押ししたりする活動も考えられます。こうした動きを把握するには、公開情報の分析だけでなく、現地の事情を理解し、必要な情報を独自に入手できる人材と組織が求められます。
つまり、スパイを取り締まる能力と、スパイ活動を含む外国の動きを把握する能力は、別のものとして考える必要があるのではないでしょうか。
陸軍中野学校という前例
このことを考えるとき、思い浮かぶのが、かつての陸軍中野学校です。陸軍中野学校は、第二次世界大戦期の日本陸軍が設けた情報・諜報活動などの専門教育機関でした。一般的な軍事教育とは異なり、語学や情報収集、秘密戦、心理戦などに関わる知識や技能を身につけた人材を育成しました。
もちろん、当時の組織や活動をそのまま現代に持ち込めばよいという話ではありません。戦前と現在では、政治制度も国際環境も異なります。現代の日本で考えるべきなのは、その歴史を単純に再現することではなく、国家の安全を守るために専門的な情報人材を育成するという発想です。
海外の言語や文化に精通し、現地の政治や社会を理解する。公開された情報を分析するだけでなく、必要な情報を独自に収集する能力も身につける。さらに、外国による秘密の情報活動や影響工作を分析し、それに対処する知識も持つ。こうした人材を継続的に育てる教育機関があってもよいのではないでしょうか。
国家情報学校で何を学ぶのか
私が考える国家情報学校は、単にスパイを養成する学校ではありません。国家の情報活動を支える専門家を育てるための教育機関です。
たとえば、語学や地域研究、国際政治、安全保障、情報分析、サイバー分野の知識などが考えられます。外国政府の動向を読み解く力、情報の真偽を見極める力、断片的な情報から全体像を組み立てる力も必要です。情報が不足しているときに、何が分かっていて何が分かっていないのかを判断する能力も欠かせません。
そして、情報収集だけでなく、外国による世論操作や秘密裏の影響工作についても研究する必要があります。どのような手法が使われ、社会にどのような影響を与えるのかを理解できなければ、それに対抗することも難しいからです。
さらに、海外で日本の国益を守るための秘密活動を担う人材についても、制度として検討する余地があります。ただし、秘密工作を認めるのであれば、その目的や権限、実施できる範囲を法律で明確にしなければなりません。虚偽情報による世論操作や、他国の選挙への不正な介入などを無制限に認めるという話ではありません。何を許容し、何を禁止するのかを明確にすることが前提です。
学校だけでなく、活動する組織も必要
人材を育てても、その能力を生かす組織がなければ意味がありません。国家情報学校の設置とあわせて、卒業した人材が情報収集や分析などの専門業務に従事できる組織を整備する必要があります。
その組織を防衛省・自衛隊の一部門として設置するのか、それとも外交や経済なども含めて活動する独立性の高い対外情報機関とするのか。これは重要な検討課題です。
軍の一組織とすれば、防衛や軍事に関する情報活動との連携が考えられます。一方、外国の政治情勢や経済動向、社会への影響工作など、幅広い分野の情報を扱うのであれば、防衛分野だけに限定しない組織も必要になるでしょう。
大切なのは、組織の名前や所属先を先に決めることではありません。日本がどのような情報を必要としているのかを明確にし、それを収集・分析するための人材、組織、権限を一体として設計することです。
また、秘密活動を行う組織には、権限の乱用を防ぐ仕組みも必要です。活動のすべてを公開することはできなくても、法律に従って活動しているかを国会などが監督できる制度は設けられます。国家の安全を守ることと、国民の自由や権利を守ることは、両立させなければなりません。
スパイ防止法との関係
ここまで考えると、スパイ防止法と国家情報学校は、別々の課題でありながら、互いに関係していることが分かります。
スパイ防止法は、外国のために行われる違法な情報窃取などをどのように規制し、処罰するかという問題です。一方、国家情報学校は、日本が情報を集め、分析し、国益を守るための活動を担う人材をどう育てるかという問題です。
取り締まるための法律だけを整えても、日本自身が必要な情報を集められなければ、対策は後手に回るかもしれません。逆に、情報を収集する能力を高めても、国内での秘密情報の保護や違法な情報活動への対処が不十分であれば、得られた情報や国家の機密を守ることが難しくなります。
その意味で、情報を集める体制と、情報を守る法制度は、両方を考える必要があります。順番についても、どちらか一方を完成させてから次に進むというより、人材育成、組織整備、法制度の設計を並行して進めることが現実的なのかもしれません。
まとめ

外国のスパイを取り締まることは必要です。しかし、それだけで国家の安全を守れるわけではありません。外国の動向を自ら把握し、情報を分析し、必要に応じて対外的な活動を行える能力も求められます。
かつての陸軍中野学校の歴史を振り返ると、情報活動を担う専門人材を育成するという発想自体は、日本にとって未知のものではありません。もちろん、現代に必要なのは、過去の組織の単純な復活ではなく、現在の民主主義や法制度に適合した新しい仕組みです。
スパイ防止法を作るかどうかという議論だけでなく、日本はどのような情報を必要とし、誰がそれを集め、どのような組織で活動するのか。その根本から考える必要があるのではないでしょうか。
